「飛び蹴り、頭突き、夏の炎天下でのグランド100週、炎天下のプールサイドに正座・・・・」
そうでなくて身体的暴力に縛ってもその3割は怪我をしている。
なんということだろう。
教師が、力で支配している姿が見える。
それは家庭の中でのDVの関係と同じだ。
力のあるものが力のないもの弱いものを支配していいという社会
しかも、子どもたちを教育する立場の学校でだ!
子どもの心をこれ以上傷つけないで!
多くの教師は体罰などしないだろう。
しかし、それらは、体罰暴力を子どもたちにを連鎖させる。
自分も体罰を受けてきた教師はそれを容認しやすい。
容認していないにしても、心の傷が癒えていなければ、かっとなり暴力をふるう可能性は残る。
つまりは、教師側も一人の人間として、人権を尊重されて育ってきたか?が問われる。大人になってからもある程度、人権を尊重された来たか?対等な大人として尊重されてきたか?
ということが、重要だろう。
自分自身に自信がなく、理不尽な思いをしても声も出せず、無力感を感じている人(人権が奪われている状態)が、他の、ましてや子どもの人権など、配慮する余裕がないだろう。
まずは、教師など子どもにかかかわる人はもちろん、大人たちに、わかりやすい自分のこととして受け止められえる人権教育をイソ議する必要がある。
そしてこれから、育っていく子どもたちに、早くから存在の大切さに気づき、そんな大事な自分を守っていいという(人権意識)が生じるような肯定感をはぐくむ人権教育が急がれる。
それはCAPプログラムやエンパワメント山形などが行っている心のレベルでの人権教育。
安心、自信、自由の権利があるよ。
「いやだ」
「逃げる」
「信頼できる人に話す」
という手段を使って守れるよという教育である。
「あなたはどうしたいの?」という力を引き出す教育である。
どんな理由があるにせよ、ばかにされたり暴力を受けていい人はいないってこと。
これは理屈やマニュアルを作ったからと言って、そのトウリにできるものではない。
まずは意識の高い大人たちが力の弱いもの、ないものに対しても人として尊重して関わる見本を示すことだ。
学んでそうありたいと努力することだと思う。
マニュアルや細かい指示がなければ動けない。そんな大人を生産したいのだろうか?
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