2012年7月25日水曜日

どんな状況でも殴られていい人はいない!

つぎつぎと明らかになってくる大津市のいじめ。
他のところでのいじめ事件も次々に発覚。

なんと、大人側の対応が、悲しく、なさけない。
なんだか、とんでもないおおごとになってしまい、加害者も、後へは引けないといった感じで、ますます苦しく、泥沼にはまっている感じだ。

後手後手にまわる、まるで原発事故対応と同じ。
いつまで繰り返すのか?
殴られていた。無理矢理なにか
させられていた・・・・が、「生徒同士のもめごと」「人間関係のトラブル」で済ませていること。

暴行された、殴られていたなどということは1回でもあったら許されない暴力。

まずは、学校の中でも厳しく暴力は絶対許さないという態度が必要だ。

ところが、大人側先生側が、生徒を指導するときに、暴力的だったり、多少の体罰は強くなるために必要だなど、部活動などの指導で、容認しているところは、これが言えない。

だって大人側が生徒たちに暴力的なのだから。

また、バラエティ番組で、怖がることやいやなことをさせて笑いを誘う番組があり、それを面白く見ている大勢がいるが、それはギャラをもらってしている仕事の芸人だからしていること、であると良識ある大人はわかる。
しかし、子ども達にとっては、そういうことをさせて、笑いを誘うのは楽しいこと、いいことと思っている。「いじめだ」と思っていないところもあるのではないだろうか?高いところから飛び降りろなど・・・・

こういった感覚の人(人権意識の欠如した人)たちは生徒同士が暴力行為をしても、ちょっとしたいたずらやらせのうちなど、認識が甘くなっている。

別の事件では、悪口を言われたから加害者が殴ったというのに対しては「仕方がないよな」という対応。
悪口を言われたからと、例えば市長や役職のある人を殴ればものすごい暴力事件としてセンセーショナルに報道するくせに。
殴られた方が何の地位もなかったり、生徒(子ども)だったりすると仕方がないという社会

同じであろう。生徒が生徒を殴っても、先生が生徒を殴っても、

暴力であることに変わりないし、許されることではないし、人の心と体を傷つける行為なのだということ。人権侵害なのだということ。

もめごとでも一方的に被害にあう人がいたら被害者を守らなければならない。
学校の中でのことなら生徒同士で解決できそうもなければ、先生が解決に向けて、関わらなければ、ならないだろう。

それも、ただ単に「あやまれ」的なことではなく、両方の話を聞き、どう解決に導くかなど、あるいはクラスや学年全体で、そのことをきっかけにみんなで考えるキャンスであるはずだ。そういった対応が教育というものではないのか?

お互いがやったりやられたりの五分五分の喧嘩とは違う、いじめかどうかのみきわめは先生ならわかるはず。

もう一度言う。

被害者は悪くない。どういった理由があろうと殴られたり、けなされたりしていい人はいない。

殴ったり、けなしたりしなければならない加害者のほうが哀れだ。そういったことでしか、自分に自信が持てないような育ち方をしてしまったということ。それぐらいの認識がほしいくらいだ。

誰もが持っている人権。
安心、自信、自由の権利。誰からも奪われてはいけない。
自分で守っていい権利。そういった当たり前の学びが子どもたちにされていないということだ。

学ぼうよ。自分を守るために。
理不尽な目にあったり、暴力にあった時に自分で自分を守る方法を学ぼうよ。大人は伝えようよ。教える義務があるよ。

自分が持っている力を引き出す。
主体的に生きていくために、暴力とは?人権とは?人との関係とは?人としての尊厳、倫理観、知識を持ち、 考えていこうよ。

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