2012年7月6日金曜日

いじめ自殺に思う   パート2

教育とは、人を人とならしめるもの・・・人が生きるために必要な「命(人権)を守る学習」が基盤に、なければならない。
学校で何を教えなければならないか?
いじめがあったかなかったか?先生が直接把握し、証明されなければなかったことにしていい・・それを教えているの?

もっと子どもの命の大切さを子ども達に伝えるべき大人側がこれでは・・・・・。
人権「自分に対する肯定感を持っていい,安心、自信、自由を守っていい」そういう視点を持つ時代はとうに来ている。

戦争などない日本になって半世紀もたつのだから。多くを反省し、人権を尊重しようといろんな法律もできているのだから・

人権は私たち人間の生きる基盤を守ること…生きる基盤とは「命」を守ること

教育で、自分の人権「心と体を守ること」を重点に教えていくことが、いじめをなくしていくことにつながる。

なぜ、いじめたくなるのだろう?
人を馬鹿にしたり、困らせたり、痛めつけて面白がるとは、どこからそうしたい気持ちが出てくるのだろう?

人をばかにしなければ、自分が馬鹿にされると思うのだろうか?
誰かをいじめることで、なんとなく、仲間になった思っているのだろうか?一緒に笑えるだけの一瞬、表面なうわっつらの連帯感でもいいと思うのか?

裏返せば、自分自身がこれでいいと思っていない。
人をコケにしなければ、自分が優位に立てない。
自分は人より優位に立たなければいじめられる側になる。
人と対等ということがわからない。
常に、勝つか負けるか、上か下かでしか人を見られないのだろうか?

加害者側の悲しい、淋しい、貧弱な心が見えてくる。

子どもがいじめの加害者になる前に、どこかで被害者になっている現状もある。
幼いころの家庭の中に存在する暴力、DV、力のあるものが弱いものを支配していいと学ぶ、力でいうことを聞かせていいと・・・。
漫画やメディアに登場する多くの暴力に慣れっこになってしまいそうな環境、暴力をかっこいいなどと勘違いするような描き方。

素直な子どもほど、吸収しやすいのだから、幼いころから力を引き出すようなプラスの教育が必要でである。

「ここがよくない、もっと頑張れ、失敗は許さない」といったマイナスの教育ではなく、
「ここができた、頑張ってるね。失敗はつぎに生かせばいい」といった、寛容な大人側の姿勢のプラスの教育。

大人側が、子どもをかけがえのない存在とみなすこと、子どもなりに力を持っていると信じる視点、
この子なりにできることはあると思う気持ち,
人格を持った人として対等に対応する視点など、
大人が自分を振り返る必要が多いになると思う。

いま、福島の放射能の問題、原発の問題、
世界にある核爆弾の問題、相変わらず、紛争がどこかで続いている現実・・・・・。
大人の身勝手さが、子どもに影響を及ぼす。

そういった意味で、学校は子どもたちに存在のかけがえなさと大切な人権を持つ存在であることを、自分の心と体を守っていいことを教える義務がある。

これこそ教育であろう。
学校側は、人権教育、暴力防止教育をする義務を怠ったとみることもできるのではないかと思う。

暴力の連鎖を断ち切ろう!
悲劇はいつも繰り返されている。

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