2012年12月11日火曜日

高校生にプログラム提供。加害者が100パーセント悪いこと。

パワーポイントとホワイトボードを使い、グループで話し合いをしてもらったり、感想や意見を聞きに生徒たちの間を歩いたりしながらのワークショップ。1時間半があっという間に終了。

プログラムの中で、「暴力を選んでふるった加害者が100パーセント悪い」という点について述べてみたい。

暴力行為はいけない。犯罪だ。ということは多くがわかっていること。

なのに、だれとだれの間の暴力か?によって、なぜ、その行為にたいして、仕方がないとか、被害者にも問題が…となってしまうのだろう。

いじめ問題、DVの被害者、知っている人からの性暴力、指導者と指導される側の体罰・・・

知っている者同士、身内、家族の間の暴力は、両方に非があるようにとらえられやすい。
そうだろうか?
  たとえば学校でのいじめ。
  虐められる方も問題だよね。多くの大人がそういうのだ。

じゃどんな人なら虐められてもいいの?仕方ないわけ?

意見をはっきり言わないから?人と違うことをするから?男らしくないから?同性愛者だから?性同一性障害だから?発達障害で、騒ぐから?めそめそしてるから?

どんな理由なら虐められても仕方がないのだろう?

人はいろんな人がいるし、そうなってしまった理由もあるだろうし、たまたま元気がなかったり、ストレスを発散したり、失敗したり、悪いとわかっていてもついしてしまったり。

それらは、いじめていい理由には、ならない。

どんな理由があっても虐めていいことにはならない。

また、体罰と称して行われる暴力も同じ。
何度言ってもわからないから・・・・相手がわかるように言い方を変える工夫することもできるよ。
暴力をふるって怖がらせて言いなりにさせることは簡単。
なんの工夫もしないことはこちら側の力も試されないし、自分も相手もなんの成長もない。むしろ成長を妨げている。
親や大人指導者がくふうをするべきこと。

力で言いなりにさせては、全然しつけにならない。
なぜいけないのか?自分は相手はどんな気持ちになるのか?そういう行為は自分の価値を下げることになるよと諭すなど、工夫が必要。

その人が納得できるような方法を探す。真剣に相手と向き合う。
その人自身にどうすればいいと思う?と考える時間をたっぷりあげること。

失敗しながらも自分なりに学んで、だんだんわかってくること。それがその人がしつけられて成長できることにつながる。

もちろんそう簡単ではない。簡単ではないからこそ、しつけるこちら側もしつけられる相手も試行錯誤しながら、周りに助けられながら、成長していけるのではないだろうか?

DVも当然、どんなに怒らせたからと言って殴っていい理由にはならない。他人を殴れば傷害罪だ。身内だからと言って傷害を負わせて言い訳はない。

DVの加害者は2面性を持っている。
近所や会社、一般の人に対しては、紳士的で、優しくいい人の場合が多い。

けれど、家庭の中では妻や子どもを見下していいという間違った考えがあるから、いうことを聞かなかったり、気に食わないと暴力をふるう。
自分の思いどうりにするために怖がらせる。

そして怖がらせるばかりではなく、優しくなったり謝ったりして、下手に出るコント―ルールも加えながらうまく丸め込め、自分から離れられないようにしていくのだ。
非常に巧みで、被害者は逃れられなくなっていく。
被害者が被害を訴えても、周りの人は加害者の紳士的な優しい面しか知らないからわからない。「あの人がそんなわけないよ」と2次被害につながっていく。

毎日がハラハラの生活の中で、時折見せる優しさが、とてつもなく貴重に思え(本来は当たり前のこと)、被害者はその貴重な一時のために我慢したり、努力したりしてしまうのだ。
トラウマテックボンディング。

そういったDVの特徴を知ることが被害者を理解することにつながる。

家庭や社会での暴力は、人を差別するところから生まれる。
力のあるものは力のないものを言うなりにさせていいという間違った価値観からくる。

そこには、人は誰でも生まれながらにもっている人権「安心、自信、自由」の権利を持っていることなど、知らないし、学んでこないという現実もあるのかもしれない。

基本の人権、人としての尊厳を尊重され、保障されていい存在、自分でそれを守っていいんだ。と知ることから暴力の問題の解決は始まるのではないだろうか?

どんな理由があっても加害行為をするほうが100パーセント悪いのだ。


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