家族への暴力をやめられない
父親の姿を描いたルイ・サッカーの本。
彼は「穴、HOLES]全米でベストセラー
になった小説の著者でもある。
罪を犯した罰として、大きな穴を掘らされることに
何の意味も見いだせない少年たち。
それどころか、子どもを立ち直らせるという嘘が真しなやかに語られる物語である。
暴力はいいか悪いかと問われれば、ほとんどの人が悪いと答えるだろう。
しかし、でも「、こういうときは仕方ないよね」とか「愛のむち」といった表現で、容認される場合が多い。
国と国の戦争も国民を守るためという理由で、正義のためという理由で、繰り返されてきた。
自分を守るための正当防衛や護身のためのもの以外は絶対認めてはならないと思う。
子ども達に簡単な護身術を教えることも必要だ。
体罰は是か非か?という問いも繰り返しおこなわれてきた。
線引きには意味がない。
なぜなら体罰も暴力の1種にすぎないからだ。
CAPを日本に伝えた森田ユリさんも、体罰は100害あって1一利なしと言っている。
ルイ・サッカー氏も同じ。
エンパワメント山形としても同じ。
支配によって維持される組織は、自ら積極的に動こうとしなくなる。
リーダーや恐れられている人がいなくなればおしまいだし、
そのストレスを自分より弱いものに向け、向上する方向でなく、
破壊の行動に向かうから。
人々を怯えさせても、幸せや喜びはそこからは得られない。
過去に暴力の被害者だった人は自らも暴力をふるうようになるという。しかし、この確率は3割程度である。
だたし、犯罪を犯した人の過去を見ると暴力の被害者だった人が7,8割になる。
自分も暴力で支配された人は、そのつらい経験から、暴力をしない方向に行くときが多いが、
怯えと向き合えないと、その経験は間違っていなかった。
あのおかげで今の自分がいるなど、思い込むことで納得しようとする。
しかし、良く考えてみれば、暴力ではなく、言葉でわかるように…気持ちに寄り添うように…別の厳しさで、ただしいロールモデルを見せてくれることで・・・教えてもらうこともできたはずである。
力で支配することを恥じる文化が生まれてくればいいと思う。
それはそう簡単なことではないだろう。
しかし、幼いころからの人権教育、自分の存在のかけがえなさを知る大人側の対応、尊重される経験や、愛され、守られる経験がそれを可能にしていくのではないかと思う。
「パパと怒り鬼」は、暴力をやめられない父親を子どもの視点で描いている。
暴力的な関わりしか知らない(できない)こともまた、悲劇であり、幼いころからの人との対等で尊重しあえる関係を学ぶことの重要性を示していると思う。
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